世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

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宗像地域の文化財

  • ■──赤間宿の中ほどにあり、往時の面影を今に伝える勝屋酒造。/
  • ■──日頃は静かな町も「赤間宿まつり」。期間中1万人以上の人出で賑わいます。/
  • ■──白壁が美しい沿道の町家。/
名称 赤間宿
種別
所在地 宗像市赤間
形態
調査年
保存状況
出土遺物
時期
説明 宗像は、古来より大宰府と近畿を結ぶ要路となり、官道や街道が整備されてきました。最も古い道路は、大宰府から宗像郡岬村上八(現宗像市岬津日浦付近)を経て、遠賀郡島門村大字若松(現遠賀郡島津付近)を結ぶ古代官道で、『延喜式』にもその記載が見られます。また、鐘崎から赤間宿本町までは生活道路が通り、赤間宿を起点とする主要道路のひとつとなっていました。街道は参勤交代によって整備が進んだとされていますが、黒崎から赤間を経て博多へ向かう道は、それ以前の戦国期より通じており、黒田長政が参勤交代を始めた慶長八年(一六〇三)には、宿場も設けられました。
 江戸時代、福岡藩では六本の街道と二十七の宿駅が整備されます。唐津街道は芦屋から赤間、博多を経て唐津へ続く道で、福岡藩、唐津藩、薩摩藩が参勤交代に利用し、唐津街道赤間宿は、交通や経済の中心として大いに栄えます。酒屋や茶屋、旅籠、両替屋など、多いときは二百軒余の町屋が軒を連ね、その賑わいは「赤間に行けば花嫁道具が一式揃う」と称されるほどでした。また、構口(宿場入口の門)や御茶屋(本陣)、郡屋(役所)、問屋場(人馬継所)なども置かれ、参勤交代を行う大名の重要な中継地ともなりました。
 多くの要人もここを往来したと言われ、幕末期、尊皇攘夷派の中心だった三条実美らが政変により京都を追われ、公達五人で太宰府に向かう(いわゆる五卿落ち)途中に滞在したことを記念した「五卿西遷之碑」が建てられています。一行の滞在は一カ月余りでしたが、長州藩士高杉晋作、薩摩藩士西郷隆盛などの同志が足しげく訪れ、時勢について語り合ったと伝えられています。
法量・規模・面積
所蔵
参考文献 宗像市 2009『宗像遺産 暮らし遺産編』
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