世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

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宗像地域の文化財

  • ■──出光佐三/明治18年(1885)〜昭和56年(1981)。佐三は優れた美術品蒐集家としても知られました。/
  • ■──関門海峡で活躍した計量器付き給油船。/
  • ■──創業ごろの本店(左手前の建物)と周辺(現北九州市門司区東本町1丁目付近)。当時の門司は筑豊炭田や北九州工業地帯を背景に輸出入が急増、石炭積み出し港から国際貿易港へと発展中でした。/
  • ■——イラン石油を積んで川崎油槽所に着桟した日章丸二世。「日章丸事件」は産油国との直接取引の先駆けとなり、日本人の目を中東に向けさせるきっかけにもなりました。/
  • ■──神戸高商の卒業論文「筑豊炭及び若松港」。内外の石炭生産量、主要地の消費量、輸送状況などを細かく調べた上で、筑豊炭鉱と若松港の発展性を占い、さらに石炭と石油の将来性を比較検討。一学生の意見としては驚くべき予見力で、後の佐三を示唆しています。/
名称 出光佐三
種別
所在地
形態
調査年
保存状況
出土遺物
時期
説明 日本を代表する石油会社「出光興産」の創始者・出光佐三は、明治十八年(一八八五)、藍問屋を営む資産家の次男として、宗像郡赤間村(現宗像市赤間)に生まれます。福岡商業学校から神戸高等商業(現・神戸大学)へと進み、卒業後は、小麦と機械の潤滑油を商う、神戸の酒井商会に就職します。師と仰ぐ神戸高等商業校長・水島銕也の「士魂商才」の言葉を胸に、佐三は従業員三人のこの会社で二年間丁稚奉公し、商売の基本を身につけました。
 明治四十四年(一九一一)には、神戸高等商業時代から親交のあった資産家・日田重太郎の資金援助を得て、門司市(現・北九州市門司区)に「出光商会(出光興産の前身)」を創業します。出資にあたり、日田は「従業員を家族と思い、仲良く仕事をすること。自分の主義主張を最後まで貫くこと」という条件を出 したといい、この考えは「人間尊重」「大家族主義」という会社の理念となり、今日まで受け継がれています。
 潤滑油(機械油)の販売を手掛けた出光商会は、次第に炭鉱や工場などに販路を広げ、南満州鉄道に潤滑油を納入するなど、国内に留まらず大陸にまで事業を拡大していきます。昭和十五年(一九四〇)、出光興産を設立。創業三十年にして、国内外に四本社・五十八支店・出張所を持つ企業となりました。その後、太平洋戦争の敗戦により、全事業と多くの資産を失いますが、印刷業やラジオの修理、農業など様々な事業を行うことで、社員を一人も解雇することなく、その雇用を守り抜きました。
 昭和二十二年(一九四七)には、石油業に復帰。昭和二十八年(一九五三)に、英国と抗争中であったイランから、石油の直接輸入を敢行します(日章丸事件)。さらに、世界最大の処理能力を持つ製油所の建設や、大型タンカーを駆使し、イラン・アラスカ方面へ“動くパイプライン”を確立するなど、進取開拓の精神で仕事に取り組み、地方の一商店であった会社を、日本を代表する石油会社にまで成長させました。
 一方で、佐三は美術や日本の伝統文化にも造詣が深く、多くの美術品の蒐集も行っています。昭和四十一年(一九六六)には、自身が七十年の歳月をかけて集めた美術品を展示・公開する出光美術館を設立。初代館長も務めました。また、教育にも熱心で、赤間の国立福岡教育大学立地の際には土地を提供するなど、地域活性にも貢献しました。
 「宗像は御神徳を受け醇風美俗の風がある。そのせいで『一所懸命働け、自らは質素にし人に尽くせ』という家風に育てられた」と語り、終戦時にも、遠く宗像大社を拝したと言われる佐三。宗像大社の昭和大造営では、宗像大社復興期成会の会長として率先して事業を推進。私財を投げ打ち、出光興産の組織を挙げてこれに協力しました。また、後に行われた本格的な沖ノ島調査の際にも経費を負担するなど、生涯、宗像大社の神徳の発揚と、宗像の発展に力を注ぎました。
法量・規模・面積
所蔵
参考文献 宗像市 2009『宗像遺産 暮らし遺産編』
図録ページ