宗像関連古文書・史料
文書群名 |
宗像第一宮置札 |
文書番号 |
1 |
文書名 |
宗像第一宮御宝殿置札 |
和暦 |
天正六年六月一日
|
西暦 |
1578年 6月 1日 |
本文 |
(花押) □〔宗〕像第一宮御宝殿置札 夫新造旨趣者、去弘治参年〈丁巳〉卯月廿四日〈子尅〉、自御内陣放火、有御煙〔炎〕上。灯明火共〈云〉、天火共〈云〉、併済度衆生之御転変者歟。一社之人民驚此火色、雖馳集、一時成猛火、奉始尊体、数多之御神宝、烣尽〔灰燼〕之。同尅夜風頻荒吹、余火之到処、限垂水之峠。雖哀動天地、無其甲斐。諸人奉成奇異之思。抑弘治弐年〈丙辰〉十月三日〈子尅〉、第一宮御神詫〔託〕、在御詠歌等数多、誠銘肝〈云云〉。難顕細筆者也。爰 当社務様氏貞朝臣、雖発悲歎之御心願給、依大内多々良御児孫中絶、豊□〔筑〕両国属豊州大友之御幕下之条、当社〈茂〉雖被準其儀、有□〔御〕内敵、動諍社職。御炎上三箇年目、永禄弐年〈己未〉九月廿五日□〔豊〕家祇候之鎮氏、語御家人、数万騎俄襲来、成社乱之□〔間〕、一社之軍兵、奉守護 社務様、到大島取退。其節豊芸義絶、偏為胡〔呉〕越隔之条、憑毛利元就、御在島堅固也。而横入之族者、許斐要害〈仁〉在城之間、同参年〈庚申〉三月廿七日、自大島相催一千余騎、夜籠押寄、翌朝乗執要害、討果人体畢。任其勢、古本領被斬返在所之事、遠賀庄限蘆屋津・広渡両村、若宮庄・西郷・野坂・赤馬庄〈領家分〉・須恵村・稲元村・平等寺村・久原村・大穂村・内殿郷、無所残御進止也。豊筑之諸侍、昨日之敵、今日者成味方、時節弥為社家安全。執付蘿山、三箇年之後、号岳山、暫静之刻、 尊神有御造立度之由、御鬱念深重也。然処、永禄七年〈甲子〉仲夏、到泊島有御社用、学頭秀賀・図師良秀渡海之処、京仏師深田次郎左衛門尉〈与〉云者、父子三人著岸。不思儀〔議〕之宿縁不浅之条、則令同心、申窺之処、何事如之哉、不廻踵、可奉刻彫 尊神之由、被 仰出。同五月廿五日木屋入、到十一月奉造畢。 尊神三体、従神六体〈仁〉万疋余貫仏師給之、帰洛。就中 御仮殿御建立之御足付御繁多之砌、在唐帰朝旅客之大船、於津屋崎沖令漂倒。数々之唐櫃者、皆以赤白之糸也。其外木綿以下贓物等在之。希代之勝事〈云云〉。其比京都以御下知、豊芸号御和平之御使、聖護院殿御門跡、有長州御在府。件之船、荷物之内過半、 公方様御被官私物在之由申之条、可有御糺返之通、雖被成御大望、往古如斯之類在之歟、被遂奏聞、倫〔綸〕旨・院宣明白之由被仰募。御証□〔文〕数通于今在之。然間、被附社物畢。同年十一月十五日辰刻、尊神御開眼供養、導師鎮国寺廿七代目之住持豪能法印也。棟上、遷宮同日也。軈而御本殿可有御造替之処、豊家之凶徒覃度々乱入、妨国務事無止時之条、国衆被仰合、到芸州、被招加勢之処、為先小早川左衛門佐隆景・吉川駿河守元春、引卒〔率〕中国十六箇国、永禄十一年〈戊辰〉八月下旬、到豊前三岳要害、被攻渡。于時城督〈長野兵部少輔弘勝、為豊州一味拘之〉、同年九月四日、被斬崩、弘勝討死、并数百人討果之。翌年筑前表可有陳替之由、到芸州註〔注〕進之。故元就御父子三人、輝元長府〈江〉御著陳、驚〔警〕固船数百艘乗浮之、為通路小倉津構平城〈伯州住南条勘兵衛尉被差籠在津〉。許斐岳取付、小笠原兵部太〔大〕輔在城。海陸被取寄、可被成行之刻、大友宗麟様日田郡迄被向御旗之節、先勢三老〈臼杵越中守鑑速・戸次伯耆守鑑連・吉弘伊予守鑑理〉、其外数千騎、岩戸庄〈仁〉在陳之通批判。同年四月十二日、到立花敵城麓、芸家之衆張陳、兵船名島内海〈仁〉懸之。城督立華〔花〕弥十郎・田北民部少輔・臼杵進士允・鶴原掃部助等也。依此事無其隠。豊州御分国之人数、猶以馳来、杉山〈仁〉打出、同五月二日名子山〈ニ〉陳取之、芸陳之前後差搦。同四・五両日、当郡境目少々放火、陳中〈与〉郡内〈与〉不通也。岳山々下迄、雖成鮥、 大方殿様有御在城、御下知無緩故、同六日如本陳相加。同月十八日、於七箇所、同尅芸豊之合戦驚目。芸陳勝利也。就夫要害無力故、懇望之間、且古今習、且弓箭之誡、誠以此時也。可助遣之由、有賢慮。閏五月十日、志賀島迄被送之。城内悉破却、則揚凱歌時、不移時日取誘、城督桂左衛門尉元清登城之。既豊陳及難儀之処、 大内義興様御舎弟氷上殿御実子太郎左衛門尉殿〈号御実名/輝弘様〉、近年諸国之傍〈仁〉在之通、宗麟様被及聞召、以御籌略、同年十月十日、周防国相穂浦〈仁〉 輝弘様御座船著岸。因玆防家之諸侍、何〈茂〉令一頭、奉加守護。同十一日、到山口築山寺御著也。高嶺要害事、自芸州拘之。国清寺恵心東堂・内藤越後守雖□〔為〕在城、其勢纔百余人馳籠之。如斯之錯乱出来之□〔条〕、同拾弐年〈己巳〉十月十五日〈丑剋〉、下向衆敗北也。元就御家□〔来〕坂新五左衛門尉元祐・隆景御家頼〔来〕浦兵部少輔宗勝、立花□〔相〕残、誠前代未聞之名誉也。然処、芸家之諸勢被引渡□〔長〕州、烈〔列〕衆議。元就・輝元・隆景赤間関〈仁〉御在陳。九州之□〔趣〕被聞合、諸国之勢者、到周防被責登之。 □〔輝〕弘様御事、可被踏留依無御便、被相具二千余□〔騎〕、到相穂浦辺、廿五日〈仁〉有御退出。再可有御乗船□〔御〕気色之処、為始御座船、一艘〈茂〉不残盪帰之間、不□□〔被覃〕御力、如防州富田表御上国也。以吉川元春行、無□□〔昼夜〕之境、被遂防戦、廿七日〈午尅〉、於富見山 輝弘様御□□〔生害〕也。其外数十人、或討死、或生捕之。而豊筑与衆、□□〔不残〕 (以下、裏面) □〔一〕騎上国也。岳山事、誠一国一城雖為体、離社□□□〔地可就〕他国土事、神明仏陀之冥鑑難遁之由、依 □〔上〕意、不傾于他、一人公私御在城之処、三箇日之後、豊□□〔家之〕諸勢、当城山下〈仁〉執近陳、送数日。可挫催雖為必□〔定〕、 □〔城〕内堅固事、恰巨霊神似守固太華山。至大島・泊□〔島〕、□〔御〕家人妻子勿論、郷民数千人、取渡無恙之。終自豊□〔陳〕、□〔和〕睦大望在之。三老御使日田郡衆〈坂本新右衛門・堤九郎右衛門〉、当城御使〈□〔実〕相院益心・□〔石〕松対馬守尚宗〉、再問再答之姿、非所及筆力。強而被仰入之間、□〔有〕御同心之。雖然、老中可有帰陳覚無之条、対芸州□〔為〕人質、御息女并家中衆深田氏実息〈島寿、今中務少輔氏栄〉、占部□〔賢〕安息〈弥次郎、今大膳進種安〉・吉田重致息〈宮寿、今内蔵大夫貞棟〉、被登置長州四箇□〔小〕野、逗留之通、其聞在之間、可被差捨之由、被帯出状歟。□〔岳〕山有下城、三老〈ニ〉渡賜歟。近年御知行之地、一旦半分各〈仁〉□〔被〕預置歟。三箇条之内、可有御納得之由、雖被仰噯、不□〔被〕及御信用、被仰放之処、然者、当陳所之左右〈ニ〉在之条、若宮・西郷事、暫時有御上表、可成御追訴之由、御入魂之間、先以被応其儀畢。兼又豊家立華〔花〕下城衆、対鑑速・鑑連・鑑理密談之分者、芸衆籠城之三人、願、為報答、上遣度之通、尽専〔善〕美被申之条、被任所望、十一月九日、立花籠居之桂・浦・坂上遣之。路中之為人質、田北民部少輔、其外肥後衆相添、同日蘆屋津迄被送之。仍御人質事、種々依御智略、同年十二月二日、何〈茂〉無相違御著国、自他晴胸霧超過之。然処、大島山中猪二疋遊戯。以外怪事之由、遂註〔注〕進。是則御一意衆、御敗軍之奇瑞者哉。翌年到元亀元年〈庚午〉三月、未離山之由、重畳申来之間、御立願条々、被申 御鬮之処、護摩〈仁〉相当也。自同月十六日一七箇日、鎮国寺一衆十一人、於当島第二宮執行之。導師当寺先看坊豪祐阿闍梨也。結願翌日、件獣可狩執企之処、自然〈ニ〉令逃失。是亦不思儀〔議〕之一也。其以来国中無為而送九年之星霜。天正四〈丙子〉歳、氏貞朝臣被励御懇志、御宝殿被相伏御建立。隣方被撰大工数人、御鬮御申之処、博多津居住日高与三左衛門尉〈付、棟上当日被任隠岐守〉相当之間、申与之。小工廿余人、鍛冶并木導・杣取・瓦師、集人数。材木調儀、上者石州益田、下者肥前松浦、御分領尽槙之数採用之。公物御入目記之不遑毛挙。此外不謂寺社給百段米。諸浦船別加之。又者奉加之輩在之。次御棟上十箇日前、博多津廻船白浜沖之瀬〈仁〉馳揚之荷物寄置、折節雖為風波、不一物流。是以 御神力之光輝誠新也。同五年〈丁丑〉三月廿三日木屋入。到翌年五月廿八日御造畢也。棟上・遷宮議〔儀〕式、御入目等之趣、別札〈ニ〉記之。抑叡山御能化竪者仁秀法印不慮到此境、御下向幸之由、 氏貞朝臣有御崇敬。 神道一流御相伝以来、備 神宮寺被申之。住持職御存知之間、加持灑水御勤也。社家御長久之御懇祈〈云〉、宝殿御造立之御功力〈云〉、 神明之擁護、曽無疑者也。五拾箇年以来諸社之置札等、或紛失、或混乱之条、為後証可書顕明細之由、依 仰置札如件。 天正六年〈戊寅〉六月朔日 〈奉行〉 吉田飛弾〔騨〕守尚時〈奉〉 〈奉行〉 豊福式部卿秀賀〈奉〉 〈奉行〉 石松対馬守尚宗〈奉〉 〈奉行〉 小樋対馬守秀盛〈奉〉 〈奉行〉 高向中務卿良秀〈奉〉 〈奉行〉 吉田伯耆守重致〈奉〉 〈社奉行〉許斐安芸守氏鏡〈奉〉 〈筆者〉 実相院益心〈奉〉
|
読み下し |
(花押)(大宮司氏貞) 宗像第一宮宝殿置札 夫れ新造の旨趣は、去る弘治参年〈丁巳〉卯月廿四日〈子の尅〉、御内陣より火を放ち、御炎上有り。灯明の火どもと〈云ひ〉、天火どもと〈云ひ〉、併しながら済度衆生の御転変たるものか。一社の人民此の火色に驚き、馳せ集ると雖も、一時に猛火を成し、尊体を始め奉り、数多の御神宝これを灰燼す。同尅夜風頻りに荒れ吹き、余火の到る処、垂水の峠を限る。天地に哀動すと雖も、其の甲斐無し。諸人奇異の思ひを成し奉る。抑弘治弐年十月三日〈丙辰〉〈子の尅〉、第一宮御神託、御詠歌等数多在りて、誠に肝に銘ずと〈云云〉。細筆に顕はし難きものなり。爰に 当社務様氏貞朝臣、悲歎の御心願を発し給ふと雖も、大内多々良御児孫中絶に依り、豊筑両国豊州大友の御幕下に属するの条、当社も其の儀に準ぜらると雖も、御内敵有りて、動もすれば社職を諍ふ。御炎上三箇年目、永禄弐年〈己未〉九月廿五日豊家祗候の鎮氏、御家人を語らひ、数万騎にて俄に襲来し、社乱を成すの間、一社の軍兵、社務様を守護し奉り、大島に到り取り退く。其の節豊芸義絶し、偏へに呉越の隔てをなすの条、毛利元就を憑み、御在島堅固なり。而るに横入の族は、許斐要害に在城の間、同参年〈庚申〉三月廿七日、大島より一千余騎を相催ほし、夜籠に押し寄せ、翌朝要害を乗執り、人体を討ち果たし畢んぬ。其の勢ひに任せ、古本領斬り返さるる在所の事、遠賀庄は蘆屋津・広渡両村を限り、若宮庄・西郷・野坂・赤馬庄〈領家分〉・須恵村・稲元村・平等寺村・久原村・大穂村・内殿郷、残す所無く御進止なり。豊筑の諸侍、昨日の敵は、今日は味方と成り、時節弥社家安全たり。蘿山に執り付き、三箇年の後、岳山と号す。暫静の刻、 尊神御造立有りたきの由、御鬱念深重なり。然る処、永禄七年〈甲子〉仲夏、泊島に到り御社用有りて、学頭(豊福)秀賀・図師(高向)良秀渡海の処、京仏師深田次郎左衛門尉〈と〉云ふ者、父子三人著岸す。不思議の宿縁浅からざるの条、則ち同心せしめ、申し窺ふの処、何事かこれに如かんや、踵を廻らさず、 尊神を刻み彫り奉るべきの由、仰せ出さる。同五月廿五日木屋入り、十一月に到り造り奉り畢んぬ。尊紳三体、従神六体〈に〉万疋余貫仏師これを給はり、帰洛す。中就 御仮殿御建立の御足付繁多の靭、在唐帰朝の旅客の大船、津屋崎沖に於て漂倒せしむ。数々の唐櫃は、皆以て赤白の糸なり。其の外は木綿以下の贓物等これ在り。希代の勝事と〈云云〉。其の比京都御下知を以て、豊芸御和平の御使ひと号し、聖護院殿御門跡(道増)、長州に御在府有り。件の船、荷物の内過半は、 公方様御被官の私物これ在る由申すの条、御糺返有るべきの通り、御大望を成さると雖も、往古斯の如きの類これ在るか、奏聞を遂げられ、綸旨・院宣明白の由仰せ募らる。御証文数通今にこれ在り。然る間、社物に附けられ畢んぬ。同年十一月十五日辰の刻、 尊神御開眼供養、導師は鎮国寺廿七代目の住持豪能法印なり。棟上げ、遷宮は同日なり。軈て御本殿御造替有るべきの処、豊家の凶徒度々乱入に覃び、国務を妨ぐる事止む時無きの条、国衆仰せ合はされ、芸州に到り、加勢を招かるるの処、小早川左衛門佐隆景・吉川駿河守元春を先として、中国十六箇国を引率し、永禄十一年〈戊辰〉八月下旬、豊前三岳の要害に到り、攻め渡さる。時に城督〈長野兵部少輔弘勝、豊州一味としてこれを拘ふ〉、同年九月四日、斬り崩され、弘勝討死し、并びに数百人これを討ち果たす。翌年筑前表陳替へ有るべきの由、芸州に到りこれを注進す。故に元就御父子三人、輝元長府〈え〉御著陳、警固船数百艘これに乗り浮かび、通路として小倉津に平城〈伯州の住南条勘兵衛尉(元続)差し籠められ津に在り〉を構ふ。許斐岳に取り付き、小笠原兵部大輔在城す。海陸取り寄せられ、行を成さるべきの刻、大友宗麟様日田郡迄御旗を向けらるるの節、先勢の三老〈臼杵越中守鑑速・戸次伯耆守鑑連・吉弘伊予守鑑理〉其の外数千騎、岩戸庄〈に〉在陳の通り批判す。同年四月十二日、立花敵城の麓に到り、芸家の衆陳を張り、兵船名島内海にこれを懸く。城督立花弥十郎・田北民部少輔・臼杵進士允・鶴原掃部助等なり。此の事に依つて其の隠れ無し。豊州御分国の人数、猶以て馳せ来り、杉山〈に〉打ち出て、同五月二日名子山〈に〉これを陳取り、芸陳の前後を差し搦む。同四・五両日、当郡境目少々火を放ち、陳中〈と〉郡内〈と〉不通なり。岳山々下迄、鮥を成すと雖も、 大方殿様御在城有り、 御下知緩み無き故、同六日本陳の如く相加はる。同月十八日、七箇所に於て、同尅芸豊の合戦目を驚かす。芸陳勝利なり。夫れに就いて要害力無き故、懇望の間、且は古今の習ひ、且は弓箭の誡め、誠に以て此の時なり。助け遣はすべきの由、賢慮有り。閏五月十日、志賀島迄これを送らる。城内悉く破却し、則ち凱歌を揚ぐる時、時日を移さず取り誘へ、城督桂左衛門尉元清これに登城す。既に豊陳難儀に及ぶの処、 大内義興様御舎弟氷上殿御実子太郎左衛門尉殿〈御実名/輝弘様と号す〉近年諸国の傍〈に〉これ在るの通り、 宗麟様聞し召し及ばれ、御籌略を以て、同年十月十日、周防国相穂浦〈に〉 輝弘様御座船著岸す。玆に因つて防家の諸侍、何れ〈も〉一頭せしめ、守護を加へ奉る。同十一日、山口築山寺に到り御著なり。高嶺要害の事、芸州よりこれを拘ふ。国清寺恵心東堂・内藤越後守在城たりと雖も、其の勢纔かに百余人馳せ籠る。斯の如きの錯乱出来の条、同拾弐年〈己巳〉十月十五日〈丑の尅〉、下向衆敗北なり。元就御家来坂新五左衛門尉元祐・隆景御家来浦兵部少輔宗勝、立花に相残り、誠に前代未聞の名誉なり。然る処、芸家の諸勢長州に引き渡られ、衆議に列す。元就・輝元・隆景赤間関に御在陳。九州の趣聞こし合はされ、諸国の勢は、周防に到り責め登らる。 輝弘様御事、踏み留まらるべき御便り無きに依り、二千余騎を相具せられ、相穂浦辺に到り、廿五日〈に〉御退出有り。再び御乗船有るべき御気色の処、御座船を始めとして、一艘〈も〉残らず盪帰するの間、御力に覃ばれず、防州富田表の如くに御上国なり。吉川元春の行を以て、昼夜の境無く、防戦を遂げられ、廿七日〈午の尅〉、富見山に於て 輝弘様御生害なり。其の外数十人、或は討死、或は生捕る。而るに豊筑与の衆、 (以下、裏面)一騎を残さず上国なり。岳山の事、誠に一国一城の体たりと雖も、社地を離れ他の国土に就くべきの事、神明仏陀の冥鑑遁れ難きの由、 上意に依り、他に傾かず、一人公私御在城の処、三箇日の後、豊家の諸勢、当城山下〈に〉近陳を執り、数日を送る。挫催すべきは必定たりと雖も、城内堅固の事、恰も巨霊神の太華山を守り固むるに似たり。大島・泊島に至り、御家人の妻子は勿論、郷民数千人、取り渡すこと恙無し。終に豊陳より、和睦の大望これ在り。三老の御使ひ日田郡衆〈坂本新右衛門・堤九郎右衛門〉、当城の御使ひ〈実相院益心・石松対馬守尚宗〉、再問再答の姿、筆力の及ぶ所に非ず。強に仰せ入れらるるの間、御同心これ有り。然りと雖も、老中帰陳有るべき覚へこれ無きの条、芸州に対し人質として、 御息女并びに家中衆深田氏実の息〈島寿、今中務少輔氏栄〉・占部賢安の息〈弥次郎、今大膳進種安〉・吉田重致の息〈宮寿、今内蔵大夫貞棟〉、長州四箇小野に登り置かれ、逗留の通り、其の聞へこれ在るの間、差し捨てらるべきの由、出状を帯せらるるか。岳山下城有り、三老に渡し賜ふか。近年御知行の地、一旦半分各〈に〉預け置かるるか。三箇条の内、御納得有るべきの由、仰せ噯かはると雖も、御信用に及ばれず、仰せ放たるるの処、然れば、当陳所の左右〈に〉これ在る条、若宮・西郷の事、暫時御上表有り、御追訴を成さるべきの由、御入魂の間、先づ以て其の儀に応ぜられ畢んぬ。兼ねて又豊家立花下城衆、(臼杵)鑑速・(戸次)鑑連・(吉弘)鑑理に封し密談の分は、芸州籠城の三人、願はくは、報答として、上げ遣はしたきの通り、善美を尽くし申さるるの条、所望に任せられ、十一月九日、立花籠居の桂(元清)・浦(宗勝)・坂(元祐)を上げ遣はす。路中の人質として、田北民部少輔、其の外肥後衆を相添へ、同日蘆屋の津迄これを送らる。仍て御人質の事、種々御智略に依り、同年十二月二日、何れ〈も〉相違無く御著国、自他胸霧を晴らすこと超過なり。然る処、大島山中猪二疋遊戯す。以ての外の怪事の由、注進を遂ぐ。是則ち御一意衆、御敗軍の奇瑞たるものか。翌年元亀元年〈庚午〉三月に到り、未だ山を離れざるの由、重畳申し来たるの間、御立願の条々、 御鬮を申さるるの処、護摩〈に〉相当たるなり。同月十六日より一七箇日、鎮国寺一衆十一人、当島第二宮に於てこれを執り行ふ。導師は当寺先の看坊豪祐阿闍梨なり。結願の翌日、件の獣狩り執るべき企ての処、自然に逃失せしむ。是れ亦不思議の一つなり。其れ以来国中無為にして九年の星霜を送る。天正四〈丙子〉の歳、 氏貞朝臣御懇志を励まれ、御賓殿相伏せられ御建立。隣方の大工数人を撰ばれ、御鬮御申すの処、博多津居住日高与三左衛門尉(定吉)〈付けたり、棟上げ当日隠岐守に任ぜらる〉相当たるの間、これを申し与ふ。小工廿余人、鍛冶并びに木導・杣取・瓦師、人数を集む。材木調儀、上は石州益田、下は肥前松浦、御分領槙の数を尽くしこれを採用す。公物御入目これを記すに毛挙に遑あらず。此の外寺社給百段米を謂はず、諸浦の船別これを加ふ。又は奉加の輩これ在り。次に御棟上げ十箇日前、博多津廻船白浜沖の瀬に馳せ揚るの荷物を寄せ置き、折節風波たりと雖も、一物も流れず。是を以て 御紳力の光輝誠に新たなり。同五年〈丁丑〉三月廿三日木屋入り。翌年五月廿八日に到り御造畢なり。棟上げ・遷宮儀式、御入目等の趣、別札〈に〉これを記す。抑叡山御能化竪者仁秀法印慮はざるに此の境に到り、御下向幸ひの由、 氏貞朝臣御崇敬有り。 神道一流御相伝以来、 神宮寺に備へ申さるるなり。住持職御存知の間、加持灑水の御勤なり。社家御長久の御懇祈と〈云ひ〉、宝殿御造立の御功力と〈云ひ〉、 神明の擁護、曽て疑ひ無き者なり。五拾箇年以来諸社の置札等、或いは紛失し、或いは混乱の条、後証として明細を書き顕はすべきの由、仰せに依つて置札件の如し。 天正六年〈戊寅〉六月朔日 〈奉行〉 吉田飛騨守尚時〈奉る〉 〈奉行〉 豊福式部卿秀賀〈奉る〉 〈奉行〉 石松対馬守尚宗〈奉る〉 〈奉行〉 小樋対馬守秀盛〈奉る〉 〈奉行〉 高向中務卿良秀〈奉る〉 〈奉行〉 吉田伯耆守重致〈奉る〉 〈社奉行〉許斐安芸守氏鏡〈奉る〉 〈筆者〉 実相院益心 〈奉る〉
|
大意 |
|
紙質 |
|
寸法(縦) |
33.5cm |
寸法(横) |
205.4cm |
備考 |
|
出典 |
『宗像大社文書』第4巻 |
copyright © 2020 世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会 All Rights Reserved.