世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

文字サイズ 標準 特大
背景色

宗像関連古文書・史料

  • 毛利隆元・元就連署感状写/石松貞証文/
  • 毛利隆元・元就連署感状写/石松貞証文/
文書群名 石松家文書
文書番号 3
文書名 毛利隆元・元就連署感状写/石松貞証文
和暦 永禄四年五月二十九日/延宝九年正月吉日
西暦 年 月
本文 去月十八九両日、豊家衆至許斐岳取懸之処、各有籠城、被砕手、敵数人被仕付、被得勝利之通、在関奉行依注進、令承知候。毎篇御粉骨、別而心懸之所致、不始于今候。殊三ヶ年在島神妙之至候。仍雲石境一城取出普請相調、被令帰陳之条、其国之行不可有遅々候。弥堅固才覚肝心候。猶従奉行共所可申候。恐々謹言。
永禄四〈辛酉〉
 五月廿九日   隆元
         元就
  石松摂津守殿
 (紙継目)
右ノ本書ハ、石松市之左衛門方奉公裃申〈ニ〉付、若入申儀〈茂〉候ハ〈与〉、借被申候間、借〔貸〕シ置申候。自然其方〈ヘ〉入申事在之候ハゝ、何時〈茂〉彼人より取寄可被申候。入用之時者、互〈ニ〉取遣仕候ヘ〈と〉堅申聞〈せ〉、右之分〈ニ〉候。文体・年号・月日・当所之位・殿文字迄、一字一天〔点〕〈茂〉違不申様〈ニ〉写置者也。
延宝九年
〈辛ノ/酉ノ〉
  正月吉日   石松彦右衛門
             貞(花押)
     石松作右衛門殿
読み下し 去んぬる月十八九両日、豊家衆許斐岳に至り取り懸かるの処、各籠城あり、手を砕かれ、敵数人仕付けられ、勝利を得らるるの通り、在関奉行注進に依り、承知せしめ候。毎篇御粉骨、別して心懸けの致す所、今に始まらず候。殊に三ヶ年在島神妙の至りに候。仍つて雲石境に一城取出普請相調へ、帰陳せしめらるるの条、其の国の行遅々とあるべからず候。弥堅固の才覚肝心候。猶奉行共の所より申すべく候。恐々謹言。
永禄四〈辛酉〉
 五月廿九日   (毛利)隆元
         (毛利)元就
 (紙継目)
 石松摂津守(典宗)殿
右の本書ハ、石松市之左衛門方奉公裃申すニ付き、若し入り申す儀も候ハバと、借り申され候間、貸シ置き申し候。自然其方へ入り申す事これ在り候ハバ、何時も彼人より取り寄せ申さるべく候。入用の時は、互いニ取り遣はし仕り候へと堅く申し聞かせ、右の分ニ候。文体・年号・月日・当所の位・殿文字迄、一字一点も違ひ申さざる様ニ写し置くものなり。
延宝九年
 〈辛ノ/酉ノ〉
   正月吉日   石松彦右衛門
              貞(花押)
      石松作右衛門殿
大意 毛利元就・隆元父子、去る四月十八・十九日、許斐岳城に攻め寄せた大友氏の軍勢を撃退したことにつき、石松典宗の功績を賞し、出雲・石見国境に一城普請の後、宗像方面への出陣を約する。降って、延宝9年(1681)、石松彦右衛門貞、石松市之左衛門が武家奉公に出るに際し原本を持たせ、併せて写を作成し石松作右衛門に与える。
紙質 楮紙
寸法(縦) 14.2cm
寸法(横) 96.4cm
備考
出典 『宗像大社文書』第3巻