宗像関連古文書・史料
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宗像社造営代々流記 |
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本文 |
(モト端裏書カ、本文と同筆)「宗像社造営代□〔代〕流記」
日本記〈云〉、 人皇十代崇神天皇御宇十二年、諸国崇神第一記〔紀〕伊国日前宮、第二月前宮、第三大和国布流社、第四筑前国浮橋姬宮、玉取散髪明神名、亦神功皇后御時、息島姬名、第五日向国小坂宮、第六出雲大社。 諸国流記〈云〉、 聖武天皇御時、天平聖暦十五年〈癸未〉、行基菩薩入唐帰朝之時、筑前国多海崎付〔着〕給、大浪立時、洪鐘一口海中入、浪定、梶取田部正丸着、神詫〔託〕宣〈云〉、我天照大神一女玉取散髪姬我也、我二弟有女、今幸逢聖人天帝語給、新羅合戦之時、於若千人滅亡、為彼七十五寺・七十五社立、吹大法螺、読誦法華経中、八月十五日相当新羅合戦立会述供養給、我守護天下・御門語給、依行基命聖武驚、七十五寺社立、人皇三十九代光仁天皇御宇、宝亀七年〈丙辰〉癈〔廢〕所社被改御時、御門御夢想、白衣美女告〈云〉、 多海山宗像田島我屋敷、家造四手田部君作賀咲佐槙、 同御時宇佐宮御歌、 スミカクチマシハナラシハヲリカケテ、イヲ〔ホ〕カタムスフウサノミヤミ世 同御時諏訪大明神御歌、 シナノチヤスハアキカせハゝタサムシ、モリヒトリタヘコヤヲツクラム 醍醐御門御時、号延喜廿二年〈壬午〉、諸国御願所崇、立花寺・武峰・住吉・鹿島被修造畢、此御時宗像社造宮勅使乙丸大納言兼上一位任左大臣、預御倉三十九下国、子息有一人、乙丸忠仁公第八末子、一日国王三条留〔富〕小路殿〈云〉、号後白河殿、延喜十一年任左大臣、皇〔交〕代也、乙丸左大臣唐人重杲拝、崇泰〔秦〕難〈云〉、無皇相、重杲〈云〉、一日徳有謂、彼等二人者武宗皇帝朝人也。 後冷泉院御時、永承七年〈壬辰〉、宗像社被造、勅使者河内諸勝、鳥羽院御時、天仁二年〈辛卯〔己丑〕〉、宗像社焼失〈ス〉、同院御時、永久二年〈甲午〉、有御夢想告、白衣美女三人告〈云〉、 我宿ハカタ野々ハラトヤケヌレハ、アメニヌレツゝワヒツゝソスム 父弘介未分死、舎兄弘長社焼、舎弟弘宗社造。 真如親皇入唐時、有宗像社参籠、菩提心御祈請、 極楽ノミチシルヘニハワカミナル、心一ツノナヲ〔ホ〕キナリケリ 弘法大師入唐帰朝時、宗像社詣給、鳥鳴声聞給、鳥如鳩、◦奈感不厭宮草木庭阿耨菩提乃花応布、此歌心者、ナニコトモキラハムミヤノクサキニハ、アノクホタイノ花ソサキケル 書写山聖空聖人、宗像社鳥嗚、聖人聞知給、 遠離因果法然具足鳴 此歌心地者、 トヲ〔ホ〕キヨリチカキニイタル我身ミナ、菩提種ハモルゝカタナシ 宗像社天仁二年焼、中有四年、永久二年自被造営(「仮宮」(後筆カ))【以来迄文保元年二百七年】。 「元永二年御宣旨ヲ下サレ、宗像社本社其外建物、悉皆建立ニ成ル、 長承元年十二月廿九日、火災アリ、 久安四年御造営〈ニ〉相成ル。」 〈〇以下余白〉 |
読み下し |
省略 |
大意 |
(原本【概要】)文保元年(1317)、宗像社にかかわる仏教関係の記事社殿の回禄・造営に関する記事などをあつめ、これを『宗像社造営代々流記』と名づく。なかに、行基菩薩、弘法大師、書写山性空上人にかかわる伝承などがみえる。 |
紙質 |
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寸法(縦) |
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寸法(横) |
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備考 |
(以下、原本本文末尾より移動)
〇巻首裏打に(冒頭継目の上)「□□□/宗像社造営代代流記」「第二百【十七】廿二号」と記した貼紙あり。 |
出典 |
『宗像大社文書』第3巻 |
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