宗像関連古文書・史料
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文書番号 |
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文書名 |
宗像宮創造記 |
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本文 |
宗像宮創造者、人王四十一代光仁天王〔皇、以下同〕之御宇、天応二年〈壬子〉、以勅賜造宮、其後醍醐天王之御宇〈ニ〉、御子中納言清氏〈仁〉内裏年中行事悉皆給〈テ〉、宗像之社務職備畢、其已後者、無絕事相続在之、御神之影向、孝霊天王元年、従出雲国息御嶋下向、経数千年、宗像影向、先室貴六岳垂跡、其時、神祭様々成、于今当社神拝遷留畢、仍御神領過分〈云トモ〉、于今相違〔遺〕所々、肥前国晴気三百町、豊前大豆俵四十町、壱岐嶋薬師丸弐十町、当国古物神崎四十町、西郷三百町、稲元四十町、須恵村三十町、芹田五十町、 已上八百二十町也、
(裏書)「 奄奄縛日羅(この5字、逆向き) 飛風為 奄縛日羅薩(この5字、逆向き) 金訓読 奄縛日羅(この4字、逆向き)」
一年中行事之神祭、九千四百六十八度也。 于今無怠、三社長日御供加之。 一当神三千七百余社〈トハ〉申〈せトモ〉、先以現在〈ニハ〉、百八社与七十五社神祭〈ノ〉本〈スル〉也。 一三所大菩薩〈ハ〉三姫〈ノ〉神御座、織幡武内〔ハ脱カ〕大臣変化、許斐権現〈ハ〉熊野三所也。 文徳天王御宇、勧請之、其外異国退治〈ノ〉時、与力御神、当領在々処々皆勧請之、祭奠至畢、従往古充当被置処、于今無相違。 一社軄乍居武役勤事、尊氏将軍下向自時始也。 一当神之竒〔寄〕船御進退、海辺東葦屋津限、西新宮湊及〈ナリ〉、財物・空船皆神物成事、御縁記〔起〕書之、社壇之被加修造而、財主可扶御誓願〈ト云〉。 一五十五堂之事、新羅・百済・高麗人御神害給間、為弔立置給仏也、一城之衆申〈ハ〉五千五百人〈ナリ〉、仏一躰而千人〈ツ〉、扶給〈ヘトノ〉心也、仍免田被立置畢。 一宗像殿御先祖之事。 人王五十九代宇多天王之王子而御座、御即位有〈ヘケレトモ〉、御舎兄之醍醐天王即位在間、王子而御座、延喜御門之代、権政行給事、月支・震旦・日本〈ニモ〉始也、然間、神泉苑御遊覧在〈シ〉折節、池之汀青鷺応居〈タリケルヲ〉、文屋村里〈卜〉云殿上人、アノ鷺召〈テ〉詣〈卜〉勅定〔諚〕在〈ケレハ〉、鷺已立〈トシケルカ〉、勅言〈ニ〉恐〈テ〉不飛立、其時、彼人抱取〈テ〉御前参〈ケレハ〉、鳥類・畜類及〈モ〉朕〈カ〉意〈ニ〉随〈卜〉御有〈テ〉、五位丞〈卜〉名〈ヲ〉下給〈テ〉放〈サレケリ〉、此事無隠大唐〈エ〉聞〈エ〉、時之天子照〔昭〕宗皇、カンラウシヤウ〈ト〉申画師〈ヲ〉日本〈ニ〉渡〈シ〉、延喜天王画図〈ニ〉写〈シ〉、日夜可有信拝、依〈テ〉有綸言、御舎弟中納言清氏者、容顔美麗御座間、御門一日之王位〈ヲ〉譲、御衣脱著〔着〕賜〈テ〉、入夜焼銀燭、御形奉写、御使帰〈矣〉、此故〈ニ〉宗像殿御子孫、于今一日国王〈トハ〉申伝鳧、醍醐天王六十代目延喜御門〈卜〉奉申也、其以前〈ハ〉従内裏被立勅使、政〈ヲ〉執行有〈ケレトモ〉、依大儀、清氏中納言殿補任〈ノ〉為、社務悉内裏〈ノ〉政〈ヲ〉行移〈シテ〉大宮司殿〈卜〉申〈ナリ〉、昌泰元年〈戌午〉三月御下向、其后〔後〕、清氏神事専執行、于今無懈怠、厥以前〈ハ〉勅使下向有〈テ〉、正月・五月・七月・八月・十二月、年中〈ニ〉五度勅使也、其後年中行事〈ヲ〉記、権実神社無遺祭給〈ナリ〉、殊又九間御社〈ハ〉官庁〈ヲ〉移〈サレ〉、王〈ノ〉御即位之儀軄〔式〕大切〈ノ〉御神事也、聡〔総〕以上祭数九千四百六十八度也、三社長日御供加之、委細神事目録在之。 |
読み下し |
宗像宮の創造は、人王四十一代光仁天皇の御宇、天応二年〈壬子〉、勅賜を以て造営す。其の後、醍醐天皇の御宇に、(宇多天皇の)御子中納言清氏に内裏年中行事悉く皆給ひて、宗像の社務職に備はり畢んぬ。其れ以後は、絕ゆることなく相続きてこれ在り。御神の影向は、孝霊天皇元年、出雲国より息の御嶋に下向、数千年を経て、宗像に影向す。先づ室貴六岳に跡を垂る。其の時、神祭様々に成る。今に当社神拝遷し留め畢んぬ。仍つて御神領過分たりと云ふとも、今に相遺る所々、肥前国晴気三百町、豊前大豆俵四十町、壱岐嶋薬師丸弐十町、当国古物神崎四十町、西郷三百町、稲元四十町、須恵村三十町、芹田五十町。 已上八百二十町なり。 一 年中行事の神祭、九千四百六十八度なり。 今に怠りなく、三社長日御供これを加ふ。 一 当神は三千七百余社とは申せども、先づ以て現在には、百八社と七十五社神祭の本とするなり。 一 三所大菩薩は三姫の神にておはします。織幡は武内大臣の変化、許斐権現は熊野三所なり。 文徳天皇の御宇、これを勧請す。其の外異国退治の時、与力の御神、当領在々処々に皆これを勧請す。祭奠至り畢んぬ。往古より充当置かるるの処、今に相違なし。 一 社職に居りながら武役を勤むる事、尊氏将軍下向の時より始まるなり。 一 当神の寄船御進退のこと、海辺東は葦屋津を限り、西は新宮湊に及ぶなり。財物・空船皆神物に成る事、御縁起これを書く。社壇の修造を加へられて、財主御誓願を扶くべしと云ふ。 一 五十五堂の事、新羅・百済・高麗人を御神の害し給ふ間、弔のため立て骰き給ふ仏なり。一城の衆と申すは五千五百人なり。仏一体にして千人づつ扶け給へとの心なり。仍つて免田立て置かれ畢んぬ。 一 宗像殿御先祖の事。 人王五十九代宇多天皇の皇子におはします。御即位あるべけれども、御舎兄の醍醐天皇即位ある間、皇子におはします。延喜御門の代、権政行ひ給ふ事、月支・震旦・日本にも始めなり。然る間、神泉苑に御遊覧ありし折節、池の汀に青鷺居たりけるを、文屋村里と云ふ殿上人に、「あの鷺召して詣でよ」と勅諚ありければ、鷺已に立たんとしけるが、勅言に恐れて飛び立たず。其の時、彼の人抱き取りて御前に参じければ、鳥類・畜類に及ぶも朕が意に随ふと御感ありて、五位丞と名を下し給ひて放されけり。此の事隠なく大唐へ聞こえ、時の天子昭の宗皇、かんらうしやうと申す画師を日本に渡し、延喜天皇を画圏に写し、日夜信拝あるべしと、綸言あるに依つて、御舎弟中納言清氏は、容顔美麗におはします間、御門一日の王位を譲り、御衣を脱ぎ着賜ひて、夜に入り銀燭を焼き、御形写し奉り、御使帰る。此の故に宗像殿御子孫、今に一日国王とは申し伝へけり。醍醐天皇六十代目を延喜御門と申し奉るなり。其れ以前は内裏より勅使を立てられ、政を執行ありけれども、大儀に依て、清氏中納言殿を補任のため、社務悉く内裏の政を行ひ移して大宮司殿と申すなり。昌泰元年〈戊午〉三月御下向。其の後、清氏神事専ら執行し、今に懈怠なし。それ以前は勅使下向ありて、正月・五月・七月・八月・十二月、年中に五度勅使なり。其の後年中行事を記す。権実神社遺りなく祭り給ふなり。殊又九間御社は官庁を移され、王の御即位の儀式大切の御神事なり。総じて以上祭数九千四百六十八度なり。三社長日御供これを加ふ。委細神事目録これあり。 |
大意 |
(原本【概要】)宗像宮の創造は、光仁天皇の天応二年(782)勅旨をもって造営され、その後、醍醐天皇の代に同天皇の弟中納言清氏が宗像社社務職に任ぜられたことに始まる。神は孝霊天皇の元年、出雲国よりまず沖ノ島に移り、そして数千年を経て、宗像の地に影向したが、そのさいまず室貴六嶽に垂迹した。その後、次第に神社の基盤が整い、所領も備わってきた。(以下略) |
紙質 |
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備考 |
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出典 |
『宗像大社文書』第3巻 |
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