宗像関連古文書・史料
文書群名 |
宗像家文書 |
文書番号 |
24 |
文書名 |
預所橘知嗣袖判下文写 |
和暦 |
文永八年八月 日
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西暦 |
1271年 8月 |
本文 |
(花押) 下 筑前国宗像庄官等所 可令早停止宗像前大宮司氏重後家并子息氏村・氏遠等非分濫訴、且依相伝、且任 入道前太政大臣家政所御下文以下証文道理、武藤六郎兵衛入道覚然進退領掌宗像社領筑前国土穴・稲本・須恵三箇村名主職事 右、当年七月 日得覚然訴状偁、件所職覚然相伝之次第、具于関東度度避状并領家政所御下文已下証文。依之覚然領知更無相違。而彼後家以下輩等、構事於縦横、奉違背 本所、就掠訴申子細於関東、一旦雖有尋御沙汰、覚然依申披事由、毎度被棄置彼等濫訴、蒙御下知畢。然者当時知行雖無相違、猶恐向後之牢籠者也。且、当御庄本所一向御進退之条炳焉也。然則停止彼等之濫訴、可令相伝知行之由、下給重御下知、欲備向後之亀鏡云々者、件三箇名主職事、就関東御教書、入道太政大臣家御時、被成下政所御下文之上、文永六年依仰重令下知畢。然者覚然可令相伝領掌之状、所仰如件。庄官等宜承知、敢以不可違失。故下。 文永八年 日 |
読み下し |
(花押)(橘知嗣) 下す 筑前国宗像庄官等の所 早く宗像前大宮司氏重後家并びに子息氏村・氏遠等の非分の濫訴を停止し、かつうは相伝に依り、かつうは 入道前太政大臣(西園寺実氏)家政所御下文以下証文の道理に任せ、武藤六郎兵衛入道覚然をして進退領掌せしむべき宗像社領筑前国(宗像郡)土穴・稲本・須恵三箇村名主職の事 右、当年七月 日覚然の訴状を得るに偁く、件の所職覚然相伝の次第、関東度度の避状并びに領家政所御下文已下の証文等に具さなり。これに依つて覚然の領知更に相違無し。而るに彼の後家以下の輩等、事を縦横に構へ、本所に違背し奉り、子細を関東に掠め訴へ申すに就いて、一旦尋ね御沙汰ありと雖も、覚然事の由を申し披くに依り、毎度彼等の濫訴を棄置かれ、御下知を蒙り畢んぬ。然れば当時の知行相違なしと雖も、猶向後の牢籠を恐るるものなり。かつがつ、当御庄は本所一向御進退の条炳焉なり。然れば則ち彼等の濫訴を停止し、相伝知行せしむべきの由、重ねての御下知を下し給はり、向後の亀鏡に備へんと欲すと云々者れば、件の三箇名主職の事、関東御教書に就いて、入道太政大臣家(西園寺実氏)の御時、政所御下文を成し下さるるの上、文永六年仰せに依り重ねて下知せしめ畢んぬ。然れば覚然相伝領掌せしむべきの状、仰する所件の如し。庄官等宜しく承知し、敢て以て違失すべからず。故に下す。 文永八年 日 |
大意 |
預所橘知嗣、宗像庄官等に宛て、武藤覚然(為頼)が宗像郡土穴・稲本・須恵三箇村名主職を実際に支配すべきことを命じる。 |
紙質 |
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寸法(縦) |
cm |
寸法(横) |
cm |
備考 |
寸法は22号から31号まで一連で(青柳種信書写)、二十三紙継ぎ(各紙の横寸法については原本参照)。
『宗像大社文書』第1巻44号の写し。 |
出典 |
『宗像大社文書』第2巻 |
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