世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

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宗像関連古文書・史料

  • 関東裁許状案/
  • 関東裁許状案/
文書群名 宗像家文書
文書番号 10
文書名 関東裁許状案
和暦 弘安八年七月三日
西暦 1285年 7月 3日
本文 (異筆)「校正了」
 (合点)筑前国朝町村地頭虎王丸代心阿与宗像社大宮司長氏代良円相論所務条々
一 検畠事
 右、如大友兵庫頭頼泰法師〈法名道忍〉注進訴陳状・具書并問注申詞者、子細雖多、所詮如両方所進建治三年下知状者、地頭進止下地、云年貢、云社役、任先例可致沙汰〈云々〉者。地頭依令進止下地、社家難遵行之由心阿雖申之、令取地子之間、社家可遂其節焉。
一 横大路以北畠并在家柒宇事
 右、本領主寄進分者、在家拾肆宇、横大路以南野畠壱町也。其外者為地頭堀内之由、心阿雖申之、無指実証歟。然者社家同可遂検畠矣。
一 麦地子斗代事
 右、段別為五舛(升)之由心阿雖称之、証拠不分明之間、任当時之済例可為壱斗焉。
一 社役事
 右、五・八両月駕輿町〔丁〕之外社家召仕百姓之条、無実証歟。然者於駕輿丁者、可致其沙汰。至自余社役者、可令停止矣。
一 堀田事
 右、就堀田之名字、為畠跡之間可取地子之由、良円雖申之、証拠不分明之間、不及其沙汰歟焉。
一 栗林事
 右、心阿則百姓一人別弁参舛之由申之、良円亦人別可為参舛之旨称之者。人別参舛之条不可然之間、一人別可弁参舛矣。
一 検断事
 右、於当社者、可停止守護人使入部之旨文治年中賜御下文間、社家可致沙汰之由良円雖申之、麦地子之外社家不及所務歟。仍非沙汰之限焉。
一 勘料事
 右、云延寿寺、云仏神人給、六箇年一度可致沙汰之由良円雖申之、社家非国司之上者同前。
一 竹林并菓子事
一 鎮守祭酒肴事
一 畑・山林木等事
一 弁済使事
一 在家臨時課役事
 右、良円雖申子細、社家不能所務之条、載先段之間、同前。
以前条々、依鎌倉殿仰、下知如件。
  (合点)弘安八年七月三日
                 相模守平朝臣〈(合点)御判〉
                 陸奥守平朝臣〈(合点)御判〉
読み下し (異筆)「校正し了んぬ」
 (合点)筑前国(宗像郡)朝町村地頭虎王丸(佐々目光重)代心阿と宗像社大宮司長氏代良円相論す所務条々
一 検畠の事
 右、如大友兵庫頭頼泰法師〈法名道忍〉注進する訴陳状・具書并びに問注申詞の如くんば、子細多しと雖も、所詮両方進むる所の建治三年下知状の如くんば、地頭下地を進止し、年貢と云ひ、社役と云ひ、先例に任せ沙汰致すべしと〈云々〉者り。地頭下地を進止せしむるに依り、社家遵行し難きの由心阿これを申すと雖も、地子を取らしむるの間、社家其の節を遂ぐべし。
一 横大路以北の畠并びに在家柒宇の事
 右、本領主寄進分は、在家拾肆宇、横大路以南の野畠壱町なり。其の外は地頭堀内たるの由、心阿これを申すと雖も、指せる実証なきか。然らば社家同じく検畠を遂ぐべし。
一 麦地子斗代の事
 右、段別五升たるの由心阿これを称ふと雖も、証拠不分明の間、当時の済例に任せ壱斗たるべし。
一 社役の事
 右、五・八両月駕輿丁の外社家百姓を召仕ふの条、実証なきか。然らば駕輿丁においては、其の沙汰を致すべし。自余の社役に至りては、停止せしむべし。
一 堀田の事
 右、堀田の名字に就いて、畠跡たるの間、地子を取るべきの由、良円これを申すと雖も、証拠不分明の間、其の沙汰に及ばざるか。
一 栗林の事
 右、心阿則ち百姓一人別参升を弁ずるの由これを申し、良円亦人別参升たるべきの旨これを称ふ者り。人別参升の条然るべからざるの間、一人別参升を弁ずべし。
一 検断の事
 右、当社においては、守護人の使の入部を停止すべきの旨文治年中御下文を賜るの間、社家沙汰を致すべきの由良円これを申すと雖も、麦地子の外社家所務に及ばざるか。仍つて沙汰の限りに非ず。
一 勘料の事
 右、延寿寺と云ひ、仏神人給と云ひ、六箇年に一度沙汰を致すべきの由良円これを申すと雖も、社家国司に非ざるの上は同前。
一 竹林并びに菓子の事
一 鎮守祭酒肴の事
一 畑・山林木等の事
一 弁済使の事
一 在家臨時課役の事
 右、良円子細を申すと雖も、社家所務を能はざるの条、先段に載するの間、同前。
以前条々、鎌倉殿の仰せに依つて下知件の如し。
  (合点)弘安八年七月三日
                 相模守平朝臣(北条貞時)〈(合点)御判〉
                 陸奥守平朝臣(北条業時)〈(合点)御判〉
大意 鎌倉幕府、筑前国朝町村地頭佐々目光重(虎王丸) の代官心阿と当社大宮司長氏の代官良円とが当村の所務をめぐって紛争するに際して、十三ヵ条にわたる裁許をした。
紙質 楮紙
寸法(縦) 33.2cm
寸法(横) 101.5cm
備考 9~11は継紙(全14紙)で、紙継目には北条英時の裏花押あり。
出典 『宗像大社文書』第2巻