世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

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宗像関連古文書・史料

  • 関東裁許状案/
  • 関東裁許状案/
文書群名 宗像家文書
文書番号 9
文書名 関東裁許状案
和暦 建治三年九月十一日
西暦 1277年 9月 11日
本文 (異筆)「校正了」
 (合点)筑前国朝町村地頭佐々目蔵人清光代教円与宗像大宮司長氏代僧隆恵相論当村田畠下地事
右、対決之処、如教円申者、当村地頭職者、清光外祖父上野介資信嘉禎二年宛給之以来令進止下地畢。本地頭之時、畠少分寄進社家之間、作畠上分送進之。用作人毎年五月会・放生会・駕輿町〔丁〕勤仕之外無別役之処、近年押妨下地之条、無其謂〈云々〉。如隆恵申者、当村者根本神領之条、見代々庁宣・国宣等、地頭補任者建保以後也。何可称本主寄進哉〈云々〉。爰如地頭所進資信給嘉禎二年七月廿八日御下文者、将軍家政所○(下)筑前国朝町住人、補任地頭職事、資信朝臣、右人可為彼職〈云々〉。如資信息女高階氏并清光給寛元・文永両通安堵御下文者、子細同前。如社家所進応保二年大苻〔府〕宣・久安三年国司外題・保元二年斉〔斎〕宮庁下文・文治二年八条院庁御下文等者、当村社領之由所見也。如文治・建保・貞応・貞永・正元・文永等関東御下知・御教書者、当社領或大宮司可社務執行之由被載之、或被避進地頭職之旨所見也。而仰大友出羽前司頼泰被尋問之処、如建治二年二月十日請文者、当村古老・沙汰人・百姓等七人事、就在国地頭代信阿注文執進起請散状処、沙汰人・百姓等者地頭同心之間、不足証人、以社家古老人可被尋問〈云々〉。如信阿状者、皆以長氏恩顧之仁也。難信用〈云々〉。此証人等事、相互嫌申上者不分明、彼沙汰人等散状進之〈云々〉者。如頼泰請文・古老人等申詞者、不分明之間、於引付座召問之処、取地子之外社家不相〓之由、地頭令申之処、帯応保以下証文為往古社領由、隆恵所申雖似有子細、本名主寄進之条不論申之間、至寄進地者、本領主子孫可令領知歟。雖為新補地頭進止下地之条、不可有異儀。次於下地者地頭進止之条為通例之上、取加徴雇仕百姓之条頗可謂承伏歟。次如頼泰請文者、証人等申詞雖非無疑殆、如百姓等所進建保以後地頭等下文等者、管領百姓之由所見也。進止下地之条勿論也。次当村内延寿寺院主職事、社家成任補状之由雖申之、如頼泰執進建保両通状者、社家・地頭共以載外題畢。社家一方非進止之儀歟。次当村者、為半不輸地之由両方称之。領主進止下地、於年貢者済国衙、至雑役者可随社家之間、地頭進止下地之条、又以不可有相違。然者地頭令進止下地、云年貢、云社役、任先例可致沙汰也者、依鎌倉殿仰、下知如件。
  (合点)建治三年九月十一日
                相模守平朝臣〈(合点)御判〉
読み下し (異筆)「校正し了んぬ」
 (合点)筑前国(宗像郡)朝町村地頭佐々目蔵人清光代教円と宗像大宮司長氏代僧隆恵相論す当村田畠下地の事
右、対決の処、教円申す如くんば、当村地頭職は、清光外祖父上野介資信嘉禎二年これを宛て給はりて以来下地を進止せしめ畢んぬ。本地頭の時、畠少分社家に寄進するの間、作畠上分これを送進す。用作人毎年五月会・放生会・駕輿丁勤仕の外別役なきの処、近年下地を押妨するの条、其の謂なしと〈云々〉。隆恵申す如くんば、当村は根本神領の条、代々の庁宣・国宣等に見ゆ。地頭補任は建保以後なり。何ぞ本主の寄進と称すべけんやと〈云々〉。爰に地頭進むる所の資信給はる嘉禎二年七月廿八日御下文の如くんば、将軍家政所下す筑前国朝町住人、補任す地頭職の事、資信朝臣、右人彼の職たるべしと〈云々〉。資信の息女高階氏并びに清光給はる寛元・文永両通安堵御下文の如くんば、子細同前。社家進むる所の応保二年大府宣・久安三年国司外題・保元二年斎宮庁下文・文治二年八条院庁御下文等の如くんば、当村社領の由見ゆる所なり。文治・建保・貞応・貞永・正元・文永等の関東御下知・御教書の如くんば、当社領或いは大宮司社務執行すべきの由これを載せられ、或いは地頭職を避り進らせらるるの旨見ゆる所なり。而るに大友出羽前司頼泰に仰せて尋問せらるるの処、建治二年二月十日請文の如くんば、当村古老・沙汰人・百姓等七人の事、在国地頭代信阿の注文に就き起請散状を執り進むる処、沙汰人・百姓等は地頭同心の間、証人に足らず、社家古老の人を以て尋問せらるべしと〈云々〉。信阿の状の如くんば、皆以て長氏恩顧の仁なり。信用し難しと〈云々〉。此の証人等の事、相互に嫌い申す上は分明せず、彼の沙汰人等散状これを進むと〈云々〉者り。頼泰請文・古老人等申詞の如くんば、分明せざるの間、引付の座において召問ふの処、地子を取るの外社家相〓はざるの由、地頭申さしむるの処、応保以下の証文を帯し往古の社領たる由、隆恵申す所子細あるに似たりと雖も、本名主寄進の条論じ申さざるの間、寄進地に至りては、本領主の子孫領知せしむべきか。新補地頭たりと雖も下地を進止するの条、異儀あるべからず。次に下地においては地頭進止の条通例たるの上、加徴を取り百姓を雇ひ仕ふの条頗る承伏と謂ふべきか。次に頼泰請文の如くんば、証人等申詞疑殆なきに非ずと雖も、百姓等進むる所の建保以後地頭等下文等の如くんば、百姓を管領するの由見ゆる所なり。下地を進止するの条勿論なり。次に当村内延寿寺院主職の事、社家任補状を成すの由これを申すと雖も、頼泰執り進むる建保両通状の如くんば、社家・地頭共に以て外題を載せ畢んぬ。社家一方進止の儀に非ざるか。次に当村は、半不輸地たるの由両方これを称ふ。領主下地を進止し、年貢においては国衙に済し、雑役に至りては社家に随ふべきの間、地頭下地を進止するの条、又以つて相違あるべからず。然らば地頭下地を進止せしめ、年貢と云ひ、社役と云ひ、先例に任せ沙汰を致すべきなり者れば、鎌倉殿(惟康親王)の仰せに依つて、下知件の如し。
  (合点)建治三年九月十一日
                相模守平朝臣(北条時宗)〈(合点)御判〉
大意 鎌倉幕府、筑前国朝町村地頭佐々目清光の代官教円と当社大宮司長氏の代官僧隆恵とが当村の田畠下地をめぐって紛争するに際して、地頭側は下地(土地そのもの)を支配し、年貢については国衡が、社役(雑役)については社家ー当社側が沙汰するよう、あらためて裁許した。
紙質 楮紙
寸法(縦) 33.5cm
寸法(横) 101.2cm
備考 二紙継ぎで、横は第一紙が50.4cm、第二紙が50.8cm。 9~11は継紙(全14紙)で、紙継目には北条英時の裏花押あり。 〓は「糸へんに寄」。
出典 『宗像大社文書』第2巻