宗像関連古文書・史料
文書群名 |
宗像家文書 |
文書番号 |
8 |
文書名 |
本家次第 |
和暦 |
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西暦 |
年 月 |
本文 |
本家次第 〈人王七十四代〉 鳥羽院 〈人皇七十三代堀河院第一之皇子也。御母贈皇大〔太〕后茨〔苡〕子、実季卿女。康和六〔嘉承二〕年十二月一日即位。保安四年正月〔廿脫〕八日譲位。治十四〔七〕年。諱宗仁。大治四年白川法皇崩御之後、院中ニテ政ヲ執給フ。永治元三月十日御出家、〈卅九。〉保元二〔元〕年七月二日崩。五十四歳。〉 美福門院 〈鳥羽院女御、近衛院母后也。号藤原得子。中納言藤原長実卿娘也。〉 八条女院 〈鳥羽院皇女也、母美福門院。号暲子内親王。准三后。二条院之御養母也。後白川〔河〕院久寿二年〈ニ〉即位マシマシテ、後鳥羽法皇并美福門院ノハカライニテ一ノ宮守仁親王〈後白川〔河〕ノ一宮也。/二条院是人也。〉東宮トシ、八条女院ヲ以テ養母トセラル。后ニ立コトナシト云トモ、八条女院ト号ス。不経后位、院号始也。〉 脩明門院 〈後鳥羽院后、順徳院母后。号藤原重子。贈左大臣範季公女也。〉 大宮院 〈後嵯峨院后、後深草・亀山母后。号藤原姞子(或始子)。西園寺大〔太〕政大臣実氏公女也。正元元年三月、西園寺苑前ニテ一切経法養也。中宮。従三位。母北山准后従一位貞子卜号ス。鷲尾大納言藤原隆衡女也。九十余ニテ卒。〉 〈八十九代〉 亀山院 〈人皇八十七代後嵯峨院第六ノ皇子也。御母大宮院、大〔太〕政大臣実氏公女。正嘉二〔三〕年十二月廿八日即位。文永十一正月廿六日譲位。治十五年。諱恒仁。正応二九月七日御出家、〈四十一。〉嘉元三九月十五日崩、五十七。〉 |
読み下し |
本家次第 〈人王七十四代〉 鳥羽院 〈人皇七十三代堀河院第一の皇子なり。御母は贈皇太后苡子、実季卿の女。嘉承二年十二月一日即位。保安四年正月廿八日譲位。治十七年。諱は宗仁。大治四年白川法皇崩御の後、院中にて政を執り給ふ。永治元、三月十日御出家、卅九。保元元年七月二日崩ず、五十四歳。〉 美福門院 〈鳥羽院の女御、近衛院の母后なり。藤原得子と号す。中納言藤原長実卿の娘なり。〉 八条女院 〈鳥羽院の皇女なり、母は美福門院。暲子内親王と号す。准三后。二条院の御養母なり。後白河院久寿二年に即位ましまして、後鳥羽法皇并びに美福門院のはからいにて一の宮守仁親王〈後白河の一宮なり。二条院是の人なり〉を東宮とし、八条女院を以つて養母とせらる。后に立つことなしと云へども、八条女院と号す。后位を経ざる、院号の始めなり。〉 修明門院 〈後鳥羽院の后、順徳院の母后。藤原重子と号す。贈左大臣範季公の女なり。〉 大宮院 〈後嵯峨院の后、後深草・亀山の母后。藤原姞子(或いは始子)と号す。西園寺太政大臣実氏公の女なり。正元元年三月、西園寺の苑前にて一切経法養なり。中宮。従三位。母は北山准后従一位貞子と号す。鷲尾大納言藤原隆衡の女なり。九十余にて卒す。〉 〈八十九代〉 亀山院 〈人皇八十七代後嵯峨院第六の皇子なり。御母は大宮院、太政大臣実氏公の女。正嘉三年十二月廿八日即位。文永十一、正月廿六日譲位。治十五年。諱は恒仁。正応二、九月七日御出家、四十一。嘉元三、九月十五日崩ず、五十七。〉 |
大意 |
これは、当社の本家職を相伝したもの(皇族)について、それぞれの略伝を記している。 |
紙質 |
楮紙 |
寸法(縦) |
25cm |
寸法(横) |
36cm |
備考 |
近世の書写か。 |
出典 |
『宗像大社文書』第2巻 |
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