宗像関連古文書・史料
文書群名 |
宗像浄恵〈氏業〉証文注進状案 |
文書番号 |
4 |
文書名 |
関東裁許状案 |
和暦 |
文永元年五月十日
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西暦 |
1264年 5月 10日 |
本文 |
「校正了」 (合点)宗像六郎氏業法師〈法名浄恵〉与小大〔太〕郎氏郷相論肥前国伊佐早庄永野村地頭職事 右、本主氏経令分付氏業并氏郷之処、有相論之間、可尋明之由、被仰大宰少弐資能畢。如弘長二年四月十七日請文者、中分当村、東方者氏業、西方者氏郷、可令領知之由、令申之間、両方境引朱筆於絵図畢。仍資能加愚判、所給与也〈云々〉。如同所進正元二年二月四日分文者、当村中分内氏業分事、田地参拾陸町壱段弐杖中〈給田拾壱町肆段弐杖、〉在家分畠地拾壱町柒段弐杖・井牟田半分宛、山野者、付東限永野河中心可被領。河以東限河上・柏原・横山口跡、下者限同河流末、但薪草漁魚不可制止之。田地在家里坪、見資能注文〈云々〉者。守彼状、無違乱、可令領掌之状、依将軍家仰、下知如件。 文永元年五月十日 武蔵守平朝臣〈(合点)在御判〉 相模守平朝臣〈(合点)在御判〉 |
読み下し |
「校正し了んぬ」 (合点)宗像六郎氏業法師〈法名浄恵〉と(永野)小太郎氏郷相論す肥前国(高来郡)伊佐早庄永野村地頭職の事 右、本主氏経氏業并びに氏郷に分け付けしむるの処、相論あるの間、尋ね明らむべきの由、大宰少弐資能に仰せられ畢んぬ。弘長二年四月十七日の請文の如くんば、当村を中分し、東方は氏業、西方は氏郷、領知せしむべきの由、申せしむるの間、両方の境朱筆を絵図に引き畢んぬ。仍つて資能愚判を加へ、給与する所なりと〈云々〉。同じく進らする所の正元二年二月四日分文の如くんば、当村中分内氏業分の事、田地参拾陸町壱段弐杖中〈給田拾壱町肆段弐杖、〉在家分畠地拾壱町柒段弐杖・井牟田半分宛、山野は、東は限る永野河中心に付き領せらるべし。河は以て東は限る河上・柏原・横山口の跡、下は限る同河流の末、但し薪草漁魚はこれを制止すべからず。田地在家里坪、資能の注文に見ゆと〈云々〉者り。彼の状を守り、違乱無く、領掌せしむべきの状、将軍家の仰せに依つて、下知件の如し。 文永元年五月十日 武蔵守平朝臣(北条長時)〈(合点)在り御判〉 相模守平朝臣(北条政村)〈(合点)在り御判〉 |
大意 |
鎌倉幕府、肥前国高来郡伊佐早庄永野村地頭職をめぐる宗像氏業(法名浄恵) と永野氏郷の相論を裁決し、同村地頭職を本主宗像氏経の中分状に従い、おのおの領掌することを命ずる。 |
紙質 |
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寸法(縦) |
cm |
寸法(横) |
cm |
備考 |
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出典 |
『宗像大社文書』第2巻 |
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