宗像関連古文書・史料
文書群名 |
宗像大宮司長氏証文注進状案 |
文書番号 |
16 |
文書名 |
関東下知状案 |
和暦 |
貞永元年七月二十六日
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西暦 |
1232年 7月 26日 |
本文 |
「校正了」 (合点)可令早停止地頭非論、為本所進止、宗像社修理料筑前国東郷内曲村肆拾町事 右、如社解者、当社修理料者、以破損之船被宛置事、往古之例也。而近年往阿弥陀仏触申関東、経 奏聞之日、停止彼船、随社家申状、可寄進用途料之由、被 宣下之間、以往代神領東郷百五十町雖注申之、僅被寄進彼郷内曲村許事、神官等所貽鬱訴也。而地頭代濫妨之間、給御下知状、雖付地頭駿河入道、可任先例之由、称給六波羅下知状、擬破 宣旨并関東御下知之条、未曽有次第也。社則七十五所也。村亦僅四十町也。縦雖為一円之領、〇〔不及〕十分之一〈云々〉。如地頭季時法師〈法名/行【西】阿〉陳状者、東郷事、自親父親能入道之時、為請所、以米伍拾石・銭伍貫文、済国衙之後、経数十年畢。行阿相続又歴年序畢。縦雖被寄進社家、為往古請所之間、任先例以所請之所当、可致沙汰之由相存之処、不論是非、引率社使、乱入郷内、新補率○〔法〕之外、不可相交地頭之由張行之間、申六波羅、可○〔任〕先例之旨、雖給下知状、社使依不承引、如無地頭、停止彼濫妨、如元可為請所之由、欲被仰下〈云々〉者。為○〔多年〕請所○〔之間〕、可依先例之旨、行阿所申雖有其謂、地頭相逢国司令申請畢。仍為国司進止之条、可謂勿論。而今可為当社修理料之由、召国司庁宣、被下 宣旨畢。社家則追国司之跡、可進退之仁也。地頭何不得社家之和与。暗称先例可号請所乎。然則多年之間、雖為請所、社領之今、宜為本所進止之状、依鎌倉殿仰、下知如件。 貞永元年七月廿六日 武蔵守平朝臣〈(合点)在御判〉 相模守平朝臣〈(合点)在御判〉 |
読み下し |
「校正し了んぬ」 (合点)早く地頭の非論を停止し、本所の進止たらしむべき、宗像社修理料筑前国(宗像郡)東郷内曲村肆拾町の事 右、社の解の如くんば、当社修理料は、破損の船を以て宛置るる事、往古の例なり。而るに近年往阿弥陀仏関東に触れ申し、 奏聞を経るの日、彼の船を停止し、社家の申状に随ひ、用途料を寄進すべきの由、 宣下せらるるの間、往代の神領東郷百五十町を以てこれを注申すと雖も、僅かに彼の郷内曲村許を寄進せらるる事、神官等鬱訴を貽す所なり。而るに地頭代濫妨の間、御下知状を給はり、地頭駿河入道(中原季時)に付すと雖も、先例に任すべきの由、六波羅下知状を給ふと称し、 宣旨并びに関東御下知を破らんと擬するの条、未曽有の次第なり。社は則ち七十五所なり。村はまた僅かに四十町なり。縦ひ一円の領たりと雖も、十分の一に及ばずと〈云々〉。地頭季時法師〈法名行阿〉の陳状の如くんば、東郷の事、親父(中原)親能入道の時より、請所として、米伍拾石・銭伍貫文を以て、国衙に済するの後、数十年を経畢んぬ。行阿相続しまた年序を歴畢んぬ。縦ひ社家に寄進せらると雖も、往古の請所たるの間、先例に任せ請くる所の所当を以て、沙汰を致すべきの由相存ずるの処、是非を論ぜず、社使を引率し、郷内に乱入す。新補率法の外、地頭を相交ふべからざるの由張行の間、六波羅に申し、先例に任すべきの旨、下知状を給ふと雖も、社使承引せざるに依り、地頭無きが如し、彼の濫妨を停止し、元の如く請所たるべきの由、仰せ下されんと欲すと〈云々〉者。多年請所たるの間、先例に依るべきの旨、行阿申す所其の謂ありと雖も、地頭国司に相逢ひ、申し請けしめ畢んぬ。仍つて国司進止たるの条、勿論と謂ふべし。而るに今当社修理料たるべきの由、国司庁宣を召し、 宣旨を下され畢んぬ。社家は則ち国司の跡を追ひ、進退すべきの仁なり。地頭何ぞ社家の和与を得ざらんや。暗に先例と称し請所と号すべきか。然れば則ち多年の間、請所たりと雖も、社領の今、宜しく本所の進止たるべきの状、鎌倉殿(藤原頼経)の仰せに依つて、下知件の如し。 貞永元年七月廿六日 武蔵守平朝臣(北条泰時)〈(合点)在り御判〉 相模守平朝臣(北条時房)〈(合点)在り御判〉 |
大意 |
鎌倉幕府、宗像社と筑前国宗像東郷内曲村地頭中原季時(法名行阿)との争論を裁し、曲村は多年地頭請所であるが、宗像社領となっているので、本所の進止とすることを令す。 |
紙質 |
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寸法(縦) |
cm |
寸法(横) |
cm |
備考 |
釈文、○印の箇所に訂正の裏花押あり。
宗像社家文書惣目録4(シ)に対応。 |
出典 |
『宗像大社文書』第2巻 |
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