世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

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宗像関連古文書・史料

  • 勘合印来由記/
文書群名 八巻文書第8巻
文書番号 185
文書名 勘合印来由記
和暦
西暦 年 月
本文    勘合印来由
筑之前州宗像三郎氏俊、丁人皇九十七代光明院之御宇而遣使於朝鮮国、迭通音。以往累年、与彼国共筆信。于時後醍醐帝走洛之南、帝之君懐良親王以武意自行九州而作要略。菊池肥後守武光、勠力懐良、九国之地成戦土也。将軍義満公、以今川伊予守貞世入道了俊補九州之探題、且以大内左京大夫義弘見定筑紫警衛之宰。依京都之下知、氏俊属彼両家而計事於左右。義弘感愛之後、以妹嫁氏俊之男氏重、家益〓〔睦カ〕。大内世々有勘合之符。氏俊亦以有此事。氏俊自到朝鮮、共定勘合音信、異船泊氏俊之領内。博多津売舶無小大、以此地、如今之肥之前州崎之津而、或調通達之用、或成売買之使。此印符之模形、有故在草苅之家。依而記来歴之次序、副此印模、以為家珍者也。
読み下し    勘合印来由
筑の前州宗像三郎氏俊、人皇九十七代に丁る光明院の御宇に使を朝鮮国に遣し、迭ひに通音す。以往累年、彼の国と共に筆信す。時に後醍醐帝洛の南に走り、帝の君懐良親王武意を以て自ら九州に行きて要略を作る。菊池肥後守武光、懐良に勠力し、九国の地を戦土と成すなり。将軍義満公、今川伊予守貞世入道了俊を以て九州の探題に補し、かつ大内左京大夫義弘を以て筑紫警衛の宰に定めらる。京都の下知に依つて、氏俊彼の両家に属して事を左右に計る。義弘感愛の後、妹を以て氏俊の男氏重に嫁し、家益睦まじ。大内世々勘合の符あり。氏俊亦以て此の事あり。氏俊自ら朝鮮に到つて、共に勘合を定めて音信し、異船氏俊の領内に泊る。博多津の売舶小大なく、以て此の地、今の肥の前州崎之津の如くにして、或いは通達の用を調へ、或いは売買の使を成す。此の印符の模形、故あつて草刈の家に在り。依つて来歴の次序を記し、此の印模に副へ、以て家珍となすものなり。
大意 草苅家所蔵勘合印について来由記成る。
紙質 楮紙
寸法(縦) 19.5cm
寸法(横) 57.3cm
備考 原文書には独自の振り仮名、返り点、傍線などが施されている。 〓は「立心偏に坴」。
出典 『宗像大社文書』第1巻