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  • 宗像社祠官等重申状/
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文書群名 八巻文書第8巻
文書番号 180
文書名 宗像社祠官等重申状
和暦 正応六年七月 日
西暦 1293年 7月
本文 筑前国宗像社祠官等重言上。
 欲殊被経早速御沙汰、令備進当社 第二太神宮長日御供、為朝町村内国方得丸地頭虎王丸代教円捧無道濫陳状、令押領彼御供田并畠地等無謂事
右、子細言上先畢。所詮、朝町村者惣名也。此内一円国領十二町在之。号得丸名為没官名之条、建久図田帳明白也。代々地頭補任之地、今虎王丸相伝之一円神領十町余在之。当社第二太神宮御供田之条、数通公験等厳重也。爰教円、俄以去建治之比、国領方与神領方共以混申半不輸之地、掠申御下知状而令押領神領御供田内六町。次以弘安之比、重掠給御下知状、令押妨同御供田〈号堀田〉四町余以下十三箇条所務之間、忝打止太神宮長日供膳畢。凡希代勝事不可不言。仍令言上子細之処、悉被聞食披。而如正応四年十二月二日御教書者、宗像社祠官等申当社領筑前国朝町村事、建治・弘安成敗令依違之由、祠官等雖申之、於下地者建治三年成敗難被改替之間、非沙汰之限、至所務者、尋明子細、可令注進云々。就之雖有重々愁訴、先応御教書、於建治押領之六町者、縦雖不及下地之御沙汰、付所務之扁、被済納所当米於社家、至于弘安押領四町余以下所務十三箇条者、蒙早速御裁許、令備進往古厳重長日御供、可遂行恒例不退神事之処、教円捧無道濫陳状、触于事送年月之条、為神、為世、争可無御誡哉。爰如教円無道濫陳状者、
 当時不残段歩可為地頭進退之条、御下知等明鏡也。大宮司長氏致押領狼籍〔藉〕之間、就訴申之、建治・弘安両度預御下知云々。〈取詮。〉
此条、地頭就掠給御下知、不残段歩押領之条者無異儀。仍所訴申也。且社家飽帯譜代箕裘公験等、至于建治・弘安、社家当知行之条無相違之処、令構申長氏押領旨之条、御賢察在暗歟。
 次同状云、於年貢者令済国衙之上、非可相〓社家。随而御下知明鏡也云々。
此条、如載申本訴状、已国方得丸十二町分所当米六石每年令済納国衙之条、先例也。猥以神宮御供田今更不可混申国衙年貢・徭丁。今案之、至非分陳状也。
 同状云、至于社役者、検畠并五八月加輿丁云々。
此条、社家大訴只在此事。為太神宮御供領之条、調度公験等明鏡之処、以口臆掠申加輿丁役所之条、偏証文与口臆専仰上裁、不尽下意者也。
 同状云、社家所帯応保・久安御下文等者被棄置之条、御下知分明也云々。〈取詮 。〉
此条、被棄置社家所帯公験等之条、有御下知之由、教円自称之上者、尤欲被召出彼御下知状者也。
 同状云、当時公田十五町之外、無社家田畠。且各別無社領之条、文暦地頭内検帳分明也云々。
此条、国方得丸名元十二町也。而地頭下作十五町之条者、強不及申子細者也。於其外社領御供田十余町者、不可相〓得丸地頭之間、不載文暦内検帳之条者正儀也。
 次同状云、建治六町・弘安四町余御供田押領之条、不実也云々。
此条、令言上本訴状之上、被載建治・弘安御下知状之間、不及委曲者也。
以前条々、大概如斯。此外濫陳状雖多、為枝葉之上、併期問答不申巨細。所詮、被経早速御沙汰、蒙御成敗、為令備進厳重御供、重言上如件。
  正応六年七月 日   権擬少宮司宗形「資致」(自署、以下同じ)
             権擬少宮司安部「長光」
             権擬少宮司宗形「資親」
             擬少宮司藤原「致長」
             擬少宮司平「長滋」
             忌子弥宜宗形「千連」
             擬少宮司大中臣「長連」
             祝詞祢宜藤原「致康」
             権少宮司藤原「資長」
             宣命祢宜藤原「致継」
             少宮司平「長真」
             少宮司宗形「親氏」
             権少宮司宗形「氏能」
             権擬大宮司大中臣「経実」
             擬大宮司中原「長信」
             擬大宮司宗像「氏廉」
             権大宮司宗像「資氏」
読み下し 筑前国宗像社祠官等重ねて言上す。
 殊に早速の御沙汰を経られ、当社 第二太神宮長日御供に備進せしめんと欲す、朝町村内国方得丸地頭虎王丸代教円のために無道濫陳状を捧げ、彼の御供田并びに畠地等を押領せしむるは謂なき事
右、子細言上先に畢んぬ。所詮、朝町村は惣名なり。此の内に一円国領十二町これ在り。得丸名と号して没官名たるの条、建久図田帳に明白なり。代々地頭補任の地、今虎王丸相伝の一円神領十町余これ在り。当社第二太神宮御供田の条、数通の公験等厳重なり。爰に教円、俄かに去る建治の比を以て、国領方と神領方と共に以て半不輸の地に混じ申し、御下知状を掠め申して神領御供田内六町を押領せしむ。次に弘安の比を以て、重ねて御下知状を掠め給ひ、同御供田〈堀田と号す〉四町余以下十三箇条所務を押妨せしむるの間、忝なくも太神宮長日供膳を打ち止め畢んぬ。凡そ希代の勝事不言すべからず。仍つて子細を言上せしむるの処、悉く聞し食し披かる。而るに正応四年十二月二日の御教書の如くんば、宗像社祠官等申す当社領筑前国朝町村の事、建治・弘安の成敗に依違せしむるの由、祠官等これを申すと雖も、下地においては建治三年の成敗改替せられがたきの間、沙汰の限りに非ず、所務に至りては、子細を尋ね明らめ、注進せしむべしと云々。これに就いて重ね重ね愁訴ありと雖も、先づ御教書に応じ、建治押領の六町においては、縦ひ下地の御沙汰に及ばずと雖も、所務の扁に付し、所当米を社家に済納せられ、弘安押領の四町余以下所務十三箇条に至りては、早速の御裁許を蒙り、往古厳重の長日御供を備進せしめ、恒例不退の神事を遂行すべきの処、教円無道の濫陳状を捧げ、事に触れ年月を送るの条、神のため、世のため、争でか御誠なかるべけんや。爰に教円無道の濫陳状の如くんば、
 当時段歩を残さず地頭進退たるべきの条、御下知等に明鏡なり。大宮司長氏押領狼藉を致すの間、これを訴え申すに就いて、建治・弘安両度御下知に預かると云々。〈詮を取る。〉
此の条、地頭御下知を掠め給ふに就いて、段歩を残さず押領の条は異儀なし。仍つて訴え申す所なり。かつがつ社家飽くまで譜代箕裘公験等を帯し、建治・弘安に至るまで、社家当知行の条相違なきの処、長氏押領の旨を構え申さしむるの条、御賢察暗きにあるか。
 次に同状に云く、年貢においては国衙に済せしむるの上、社家に相〓ふべきに非ず、随つて御下知明鏡なりと云々。
此の条、本訴状に載せ申す如く、已に国方得丸十二町分所当米六石毎年国衙に済納せしむるの条、先例なり。猥りに神宮御供田を以て今更国衙年貢・徭丁に混じ申すべからず。今これを案ずるに、非分の陳状の至りなり。
 同状に云く、社役に至りては、検畠并びに五八月駕輿丁と云々。
此の条、社家の大訴只此の事に在り。太神宮御供領たるの条、調度公験等明鏡の処、口臆を以て駕輿丁役所を掠め申すの条、偏に証文と口臆と専ら上裁を仰ぎ、下意を尽さざるものなり。
 同状に云く、社家帯する所の応保・久安の御下文等は棄て置かるるの条、御下知分明なりと云々。 〈詮を取る。〉
此の条、社家帯する所の公験等を棄て置かるるの条、御下知にあるの由、教円自称の上は、尤も彼の御下知状を召出だされんと欲するものなり。
 同状に云く、当時公田十五町の外、社家の田畠なし。かつがつ各別社領なきの条、文暦の地頭内検帳に分明なりと云々。
此の条、国方得丸名は元十二町なり。而るに地頭下作十五町の条は、強ちに子細を申すに及ばざるものなり。其の外社領御供田十余町においては、得丸地頭に相〓ふべからざるの間、文暦の内検帳に載せざるの条は正儀なり。
 次に同状に云く、建治六町・弘安四町余御供田押領の条、不実なりと云々。
此の条、本訴状に言上せしむるの上、建治・弘安の御下知状に載せらるるの間、委曲に及ばざるものなり。
以前条々、大概斯くの如し。此の外濫陳状多しと雖も、枝葉たるの上、併しながら問答を期し巨細を申さず。所詮、早速の御沙汰を経られ、御成敗を蒙り、厳重の御供を備進せしめんがために、重ねて言上件の如し。
  正応六年七月 日   権擬少宮司宗形資致
             権擬少宮司安部長光
             権擬少宮司宗形資親
             擬少宮司藤原致長
             擬少宮司平長滋
             忌子弥宜宗形千連
             擬少宮司大中臣長連
             祝詞祢宜藤原致康
             権少宮司藤原資長
             宣命祢宜藤原致継
             少宮司平長真
             少宮司宗形親氏
             権少宮司宗形氏能
             権擬大宮司大中臣経実
             擬大宮司中原長信
             擬大宮司宗像氏廉
             権大宮司宗像資氏
大意 当社の神官等、連署して、朝町村内国方得丸名地頭代教円が御供田・畠地等を押領するを停止し、当社第二大神宮長日御供を確保すべく、重ねて幕府側に訴える。
紙質 楮紙
寸法(縦) 32.9cm
寸法(横) 209.7cm
備考 4紙から成り、各継ぎ目(3か所)には同じ裏花押あり(位置については省略)。横の寸法は1紙目49.9cm、2紙目53.6cm、3紙目53.7cm、4紙目52.5cm。「宗像宮印」(朱印)20顆を捺印。 〓は「糸偏に寄(=綺)」(2か所)。原本、「加輿丁」の「加」に「(駕)」と傍注。
出典 『宗像大社文書』第1巻